鹿鳴館外交はなぜ猛批判され失敗したのか?舞踏会の真相と教訓
鹿鳴館外交はなぜ猛批判され失敗したのか?舞踏会の真相と教訓について重要なポイントを解説いたします。最新の情報をご確認ください。
幕末に江戸幕府が欧米5カ国と締結した修好通商条約は、日本側に領事裁判権(治外法権)の承認を強いる一方で関税自主権の欠如という決定的な不平等を抱え込ませていました。明治政府にとって、この不平等条約の改正こそが独立国家としての主権を確立するための最優先課題でした。
この重責を担ったのが、伊藤博文の盟友であり外務卿を務めていた井上馨です。井上は岩倉使節団に同行した経験などから、欧米列強がアジア諸国を「野蛮で未開な土地」と見なし、キリスト教的近代法体制を持たない国には対等な権利を認めないという冷徹な国際秩序の現実を骨の髄まで理解していました。そこで井上馨が導き出した打開策こそが、いわゆる極端な「欧化政策」でした。
「法制度や社会規範のみならず、生活様式や社交儀礼に至るまで欧米と寸分違わぬ文明国になれば、彼らも条約改正に応じざるを得ないはずだ」――これが井上の描いたシナリオです。その拠点として、現在の東京都千代田区内幸町に総工費約18万円(現在の価値で数十億円規模)を投じて1883(明治16)年に建設されたのが、英国人建築家ジョサイア・コンドル設計による煉瓦造り2階建ての洋館「鹿鳴館」でした。
名称は中国の古典『詩経』の「鹿鳴(ろくめい)」の詩(賓客をもてなす情景)に由来します。館内では連日のように政府高官、貴族、欧米各国の公使や外交官が集い、優雅なオーケストラの演奏に合わせてバッスル・スタイルのドレスを着た日本の貴婦人たちがステップを踏みました。これが世に言う「舞踏会外交」の始まりでした。