徳川将軍家の聖地・上野寛永寺の歴史と見どころ徹底解剖

徳川将軍家の聖地・上野寛永寺の歴史と見どころ徹底解剖の見逃せないポイントを一挙に解説しました。

寛永寺は、江戸から明治へと移り変わる激動のドラマにおいて、最も凄惨かつ決定的な舞台となりました。慶応4年(1868年)、大政奉還後に大坂から江戸へ戻った第15代将軍・徳川慶喜は、朝廷に対する恭順の意を示すため、寛永寺の塔頭・大慈院にあった一室に身を寄せました。これが現在も保存されている「徳川慶喜 謹慎の間(葵の間)」です。

慶喜公は自著『昔夢会日誌』や関係者の回顧録の中で、当時の極度の緊張感と静寂に耐え忍んだ心境を書き残しています。しかし、慶喜が水戸へ退去した後も、旧幕臣たちで結成された「彰義隊」約1,000名が寛永寺本坊に立てこもり、新政府軍と対峙しました。

同年5月15日、大村益次郎率いる新政府軍による総攻撃が開始され、わずか半日で決着がついたとされる「上野戦争」が勃発。最新鋭のアームストロング砲などの砲撃により、壮麗を極めた寛永寺の根本中堂や主要な伽藍の大部分が灰燼に帰しました。現在の上野公園内にある黒門(現・輪王寺保存の門など)や上野大仏周辺には、当時の銃弾の痕跡が生々しく刻まれており、武士の時代の終焉を無言で物語っています。

山口 彩花

山口 彩花

写真家・フォトエディター

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。

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