新撰組メンバー一覧|役職・部隊別の全容と幹部の壮絶な最期の真相

新撰組メンバー一覧|役職・部隊別の全容と幹部の壮絶な最期の真相に関する最新の話題を分かりやすく解説いたします。

幕末の動乱を生き残り、近代日本の土台が築かれた明治・大正の世を全うした隊士たちの「戦後」は、散っていった同志たちに劣らず波乱万丈でした。

斎藤一の生存とその後|「藤田五郎」として警視庁抜刀隊で西南戦争を戦う

三番隊組長として数々の要人暗殺や粛清を執行してきた斎藤一は、会津戦争で最後まで会津藩とともに城下で戦い抜きました。降伏後は会津藩主・松平容保の配慮で「藤田五郎」と改名。明治7(1874)年に警視庁へ奉職し、警察官としてのキャリアを歩み始めます。

明治10(1877)年の西南戦争では、警視隊の一員として従軍。西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻に対し、官軍の劣勢を覆すべく編成された「警視抜刀隊」として田原坂の激戦に参戦し、自ら刀を抜いて奮戦、敵の砲台を奪取する大功を立てました。その後は東京高等師範学校(現・筑波大学)や東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の庶務掛・撃剣師範を務め、大正4(1915)年9月28日、胃潰瘍のため72歳で病没。死の直前、床の間へ端座し、正座のまま往生を遂げたと伝えられています。

永倉新八の執筆活動と名誉回復への執念

近藤・土方と対立して隊を離脱した二番隊組長・永倉新八は、「杉村義衛」と名を改め、妻の生家がある北海道小樽へ移住しました。樺太(サハリン)国境調査隊の護衛や、小樽刑務所の撃剣師範、さらには東京帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道指導にあたるなど、明治の世でも竹刀を握り続けました。

明治維新後、新撰組は「賊軍の殺人集団」として徹底的に貶められていました。この風潮に憤った永倉は、明治9(1876)年、元隊士の島田魁らと協力して東京・板橋の刑場跡に「近藤勇・土方歳三らの慰霊碑」を建立。さらに晩年には小樽新聞記者・吉島一貫の取材に応じ、自らの体験を口述した回顧録を連載しました。これが名著『新撰組顛末記』であり、新撰組の実態を後世に伝える第一級の歴史的資料となったのです。永倉も斎藤一と同じ大正4(1915)年1月5日、77歳で天寿を全うしました。

新撰組生き残りの現在と子孫の歩み

2026年現在、幕末から160年以上の歳月が流れた今も、新撰組隊士たちの血脈と記憶は子孫たちによって大切に受け継がれています。日野市にある土方歳三資料館や、調布市・三鷹市に残る近藤勇の生家・墓所関係者、さらに斎藤一(藤田家)の子孫らは、家宝として受け継がれてきた愛刀や書簡の調査・公開を進めています。近年でも未公開史料や写真の発見が相次いでおり、伝説のヴェールに包まれていた個々の隊士の実像が、現代の研究者の手によって次々と再構築されています。

伊藤 翔太

伊藤 翔太

フード&トラベルライター

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。

Share this article
Twitter Facebook Pinterest