徳川13代将軍家定の暗愚説を覆す!死因の真相と篤姫の絆
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家定の私生活を語る上で欠かせないのが、生涯に迎えた3人の妻たちの存在です。最初の正室・鷹司任子、二番目の継室・一条秀子はいずれも摂家から嫁ぎましたが、若くして病で亡くなりました。そして安政3年(1856年)、3番目の正室として薩摩から大奥へ入ったのが、島津斉彬の養女・天璋院篤姫(於一)でした。
篤姫の輿入れは、薩摩藩による極めて露骨な政略工作でした。斉彬の目的は、大奥内部から家定に働きかけ、後継者を一橋慶喜に決定させることでした。言わば篤姫は、一橋派の政治的エージェントとして大奥に送り込まれたのです。
しかし、二人の間に生まれたのは、政治の思惑を遥かに凌駕する純粋な絆でした。輿入れ当初は互いに警戒心があったものの、家定の飾らない素朴な人柄と繊細な気配り、そして篤姫の聡明で裏表のない性格は急速に共鳴していきました。家定は篤姫の前ではリラックスした表情を見せ、二人で碁を打ったり、庭を眺めたりして穏やかな時間を過ごしたと記録されています。
篤姫は家定との対話を重ねる中で、夫が決して無能な暗愚などではなく、幕府の宿命を一人で背負い苦悩している深い内面を察知しました。結果として篤姫は、実家である薩摩藩の意向を離れ、夫である家定の意思と徳川家を守り抜く決意を固めます。家定の死後、篤姫は23歳の若さで落飾して天璋院と名乗り、生涯江戸城に留まり続けました。明治維新における江戸城無血開城の際、天璋院が徳川宗家の存続のために命懸けで西郷隆盛ら新政府軍と交渉したのは、亡き夫・家定への変わらぬ愛情と誓いがあったからです。