永倉新八の真実|新選組最強の剣客が生き抜いた壮絶な生涯と知られざる遺産

永倉新八の真実|新選組最強の剣客が生き抜いた壮絶な生涯と知られざる遺産の総合ガイドをご紹介します。役立つ情報が詰まっています。

元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件は、新選組が歴史にその名を刻んだ最大の事件だ。尊王攘夷派の志士たちが祇園祭に合わせた京都大火・朝廷要人誘拉致の計画を企てているとの情報を掴んだ新選組は、近藤勇率いる一隊と土方歳三率いる一隊に分かれて京都の旅館を捜索した。

永倉新八は近藤隊の一員として池田屋へ突入した。突入当初は近藤・沖田・永倉・藤堂平助のわずか4名。対する尊攘志士は30名を超えていたとも言われる。沖田はこの戦闘中に持病(肺疾患とも言われる)を発症し戦線離脱、藤堂は負傷して窮地に立たされた。この極限の状況の中で、永倉は剣を振るい続けた。

「新撰組顛末記」における永倉自身の証言は生々しい。刀は何度もぶつかり合い、血飛沫が畳を染め、足元は滑るような状況だった——という描写は、整然とした時代劇の演出をはるかに超えた現実の暴力の記録だ。永倉はこの夜、少なくとも数名と直接交戦し、自身も複数の傷を負いながら生き残ったとされる。池田屋事件で命を落とした尊攘志士は7名以上(諸説あり)。新選組側の死者は奥沢栄助ただ一人であり、この非対称な結果は実戦に特化した神道無念流の技量と、永倉の冷静な判断力なしには語れない。

後の史学研究では、池田屋事件を「過剰な武力行使」として批判する視点もある。永倉自身も晩年、この事件を誇らしく語る一方で、当夜の凄惨さを淡々と記録していた。英雄譚として消費されがちな事件を、永倉の一次証言は生身の記録として下支えしている。

---

伊藤 翔太

伊藤 翔太

フード&トラベルライター

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。

Share this article
Twitter Facebook Pinterest