菅原文太の若い頃はパリコレ級?モデル時代と伝説の軌跡を完全検証
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デビューした新東宝が1961年に経営破綻・倒産するという不運に見舞われた菅原文太は、松竹へと移籍します。しかし、メロドラマや良質な小市民劇を得意とする松竹の社風と、菅原の持つどこかアウトローな野性味は致命的なまでに噛み合いませんでした。回ってくるのは端役ばかりで、セリフすらほとんどない作品も多く、酒に溺れる荒れた日々が続いたと自著の手記でも生々しく吐露されています。
転機が訪れたのは1967年、元安藤組組長の安藤昇の口利きや、映画プロデューサー・俊藤浩滋との出会いによって東映へ移籍したことでした。任侠映画の最盛期を迎えていた東映で、菅原はついに自らの資質を解放します。そして1973年、深作欣二監督とタッグを組んだ『仁義なき戦い』の主人公・広能昌三役で、日本映画史を根底から覆す大爆発を起こしました。それまでの高倉健や鶴田浩二が演じた「義理と人情に生きる着流しの美しきヤクザ」とは対極にある、欲望と裏切りが渦巻く戦後広島の闇市を這い回る、生々しく泥臭い暴力のリアル。菅原が放った「山守さん、弾(たま)はまだ残っとるがですのう」という絞り出すような名台詞は、日本中に熱狂的な衝撃をもたらしました。当時、菅原文太はすでに39歳。デビューから15年の歳月を経て掴み取った栄冠でした。
さらにそのわずか2年後の1975年、菅原は自らの企画持ち込みから生まれた『トラック野郎・御意見無用』の一番星桃次郎役で、全く新しい大衆的ヒーロー像を確立します。日本全国の高速道路をデコトラで疾走し、惚れっぽくて喧嘩っ早いが人情に厚い桃次郎の姿は、子供から大人まで絶大な支持を集め、全10作に及ぶ超人気シリーズへと成長しました。『仁義なき戦い』の乾いた暴力と虚無感、そして『トラック野郎』の底抜けに明るいエネルギー。この両極端な頂点を極めたことによって、菅原文太は名実ともに昭和のトップスターへと上り詰めたのです。