承平天慶の乱とは?東西同時多発の真相と武士台頭の全貌を徹底解説
承平天慶の乱とは?東西同時多発の真相と武士台頭の全貌を徹底解説とはどんな影響があるのか? 背景や要点を整理してお届けします。
東国で将門が討たれたあとも、西国では瀬戸内海の海賊を束ねた藤原純友の猛威が続いていました。純友は千艘を超える船団を率いて瀬戸内海の制海権を掌握。備前や讃岐の国府を襲撃して略奪を行い、西日本屈指の重要拠点であった大宰府までも焼き払いました。
朝廷は当初、東西同時の反乱に対処しきれず、純友に従五位下の官位を与えて懐柔しようと試みましたが、純友の攻勢はやみませんでした。将門の乱が鎮圧されたことで全力を西国に向けられるようになった朝廷は、追討長官として小野好古(おののよしふる)を派遣し、密告者でもあった源経基らを副使として投入します。
天慶4年(941年)5月、博多湾で行われた大規模な水軍戦で純友軍は壊滅的な打撃を受けました。本拠地を失った純友は伊予へ逃亡したものの、追討軍によって捕らえられ、獄中で落命。ここに東西を揺るがした承平・天慶の乱は完全に平定されました。