成田山や川崎大師も?真言宗智山派の真相|豊山派との違いと葬儀作法

成田山や川崎大師も?真言宗智山派の真相|豊山派との違いと葬儀作法についての疑問解決ガイドをお届けします。

智山派の成り立ちを理解するには、真言宗がたどった「古義」と「新義」の分裂劇に触れねばなりません。

大同元年(806年)、唐より帰朝した弘法大師空海は、弘仁7年(816年)に高野山金剛峯寺、弘仁14年(823年)には嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を賜り、真言密教の根本道場を確立しました。しかし時代が下るにつれ、高野山は貴族化し学僧と行徒の対立など荒廃の兆しを見せ始めます。

そこに登場したのが、平安末期の学僧であり「真言宗中興の祖」と称される興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん、1095〜1144年)です。覚鑁は徹底的な密教改革を唱え、高野山内に大伝法院を建立。密教哲学を深化させ、大日如来の説法形態に関する新たな解釈を打ち立てました。これが後に「新義真言宗」と呼ばれる教義の源流です。

高野山旧勢力との衝突の末、覚鑁の一派は和歌山の根来山(根来寺)へと拠点を移し、一大勢力へと発展します。しかし天正13年(1585年)、紀州征伐を強行した豊臣秀吉の軍勢によって根来山は炎上。壊滅的な打撃を受けました。

この壊滅の危機から宗統を守り抜いたのが、天正5年(1577年)に根来山の能化職(学頭)となっていた玄宥(げんゆう、1529〜1605年)です。玄宥は高弟たちとともに京都へ逃れ、再起の機会をうかがいました。関ヶ原の戦いを経た慶長6年(1601年)、徳川家康から京都東山七条の豊国神社境内の一郭、かつて秀吉が早世した愛児・鶴松のために建立した祥雲禅寺の寺地を寄進され、ここに真言宗智山派総本山智積院が再興されたのです。

橋本 菜々子

橋本 菜々子

トレンドリサーチャー

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。

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