関ヶ原処刑から400年|石田三成の子孫が青森と京都で生き延びた真相

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石田三成の血脈を語る上で、最も劇的でありながら長年伏せられてきたのが、三女・辰姫を巡る歴史的事実です。

関ヶ原の敗戦後、辰姫は豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)の養女として保護されました。やがて辰姫は、津軽藩の2代藩主となる津軽信枚に嫁ぎます。信枚と辰姫の仲は極めて睦まじかったと伝えられますが、ここに徳川幕府の冷酷な政治介入が立ちはだかりました。

慶長18年(1613年)、家康は外様大名である津軽藩を取り込むため、自らの養女(徳川四天王・榊原康政の娘)である満天姫を信枚の正室として輿入れさせるよう命じたのです。幕府の意向に逆らえない信枚は、満天姫を正室として迎え、辰姫を上野国大館(現在の群馬県太田市周辺の津軽藩飛び地)へと移住させました。

身分上は「側室」へと降格させられた辰姫でしたが、信枚の愛情が薄れることはありませんでした。信枚は参勤交代の往来を利用して大館の辰姫の元を頻繁に訪れ、元和5年(1619年)、辰姫は信枚の第一子となる男児(平蔵、のちの津軽信義)を出産します。辰姫は寛永5年(1628年)に若くして病没しますが、弘前では「館神(たてがみ)」と称され、神聖な存在として崇められました。

そして驚くべき結末が訪れます。満天姫にも徳川の血を引く男子(信英)が生まれていたにもかかわらず、津軽信枚は辰姫の産んだ信義を跡継ぎに指名したのです。こうして寛永8年(1631年)、石田三成の孫である津軽信義が弘前藩の第3代藩主に就任しました。家康が最も憎み、徹底して排斥しようとした宿敵・石田三成の遺伝子は、幕府が押し付けた徳川の養女を退け、大名家トップの座を射止めていたのです。

田中 結衣

田中 結衣

デジタルマーケティングコンサルタント

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。

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