5月15日は何の日?五一五事件の真相と沖縄復帰から葵祭まで徹底解剖
5月15日は何の日?五一五事件の真相と沖縄復帰から葵祭まで徹底解剖とはどのようなものなのか? 背景や要点を整理してお届けします。
1932年(昭和7年)5月15日の夕刻、激しい雷雨の兆しを見せる東京・永田町の首相官邸に、海軍の青年将校ら9名が乱入しました。武装した反乱部隊は護衛の警察官を射殺し、官邸奥の日本間で立憲政友会総裁の首相・犬養毅(当時76歳)と対峙します。歴史の教科書でも名高い「話せばわかる」「問答無用、撃て」のやり取りは、政党政治の息根を止め、軍国主義の破滅的レールへと舵を切る痛恨の分岐点となりました。
この凶行に至る五一五事件の真相と経緯を辿ると、単なる若年将校の暴走にとどまらない、当時の日本社会を覆っていた深刻な構造疲弊が浮かび上がります。1929年の世界恐慌の余波、昭和恐慌による東北地方を中心とした農村部の飢餓や女子の身売り、さらにはロンドン海軍軍縮条約の締結を巡る統帥権干犯問題が、既成政党や財閥への苛烈な憎悪へと転化していました。反乱分子は「昭和維新」を標榜し、腐敗した政財界の首魁を排除すれば国家の根本的な刷新が成し遂げられるという過激な選民思想に染まっていたのです。
五一五事件犬養毅の最後に関する生々しい証言は、居合わせた女中や義理の娘である犬養仲子の手記に克明に残されています。頭部と首に銃弾を浴び、鮮血に染まりながらも犬養は「今撃った若い者を呼んでこい、よく話して聞かせる」と絞り出すように語り、最期まで言論による説得を諦めませんでした。しかし、その夜半に息を引き取り、憲政の常道と呼ばれた政党内閣制は完全に崩壊。暴力が言論を圧殺し、軍部が政治の主導権を握る暗黒の時代へと日本は突き進んでいきました。