支倉常長が背負った悲劇の真相と奇跡|ローマ教皇謁見からハポン姓まで
支倉常長が背負った悲劇の真相と奇跡|ローマ教皇謁見からハポン姓までを徹底追究! 知っておきたい 重要ポイントを凝縮して配信します。
支倉常長が歴史の表舞台に登場した背景には、奥州の覇者・伊達政宗の極めて冷徹な政治的・経済的野望が存在していました。一般的に語られがちな「純粋な布教支援や文化交流」という美談の裏には、幕府体制を牽制しつつ仙台藩の自立を目指す、極めて現実的な使節団派遣の真の目的が隠されていました。
当時の仙台藩は、北上川流域の新田開発や三陸沿岸の金山開発によって豊富な経済力を蓄えつつありました。政宗が目をつけたのは、太平洋を横断してノビスパニア(現在のメキシコ)と直接貿易を結び、銀の輸出と海外物資の直接輸入によって、徳川幕府の長崎貿易独占網を打破することでした。さらに、当時来日していた宣教師ルイス・ソテロの甘言も重なり、イスパニア(スペイン)との軍事提携すら視野に入っていたと分析されています。
では、なぜ数ある重臣の中から支倉常長が正使に抜擢されたのでしょうか。そこには伊達政宗との関係における、常長の個人的な苦境が深く影を落としています。常長の父・山口常成は慶長16年(1611年)、藩内の疑獄事件に連座して死罪となり、常長自身も連座による改易・家名断絶の危機に瀕していました。
政宗は、武術と胆力に優れながらも家督存続のために命を懸けざるを得ない常長の境遇を見抜き、「未知の洋上派遣を完遂すれば家名再興を許す」という過酷な条件を提示したと伝えられます。常長にとって慶長遣欧使節の旅路は、国家レベルの外交任務であると同時に、自身の家と一族の名誉を回復するための、絶対に退くことのできない命がけの賭けでした。