太宰治はなぜ志賀直哉を痛烈批判したのか?『如是我聞』と確執の真相
太宰治はなぜ志賀直哉を痛烈批判したのか?『如是我聞』と確執の真相とはどのようなものなのか? 背景や要点を丁寧に紐解いて紹介します。
激怒した太宰治が反撃の狼煙を上げたのが、雑誌『展望』1948年3月号から連載を開始した『如是我聞』でした。連載第3回以降、太宰の筆鋒は志賀直哉個人へと容赦なく向けられます。
現代語訳を交えてその過激な文言を振り返ると、太宰の怒りのすさまじさが浮き彫りになります。太宰は志賀を「武蔵野のじじい」「盲腸のような存在」と呼び捨てにし、「自分だけの狭い道徳を振りかざし、他人の作品を面白くないと決めつける無教養なリアリスト」として徹底的に糾弾しました。
太宰が怒っていたのは単なる悪口合戦ではありませんでした。「恵まれた環境で育ち、威張っているだけの権威が、敗戦の苦しみの中で喘ぐ民衆の心を描いた文学を理解できるはずがない」という、特権階級と文壇権威に対する命がけの反逆だったのです。結核の病勢が悪化し、死を目前にしていた晩年の太宰は、自らの命を削りながらこの怒りの原稿を書き殴りました。