現存する天守閣12選!なぜ残った?国宝五城の違いと見どころ徹底解剖

現存する天守閣12選!なぜ残った?国宝五城の違いと見どころ徹底解剖についての真相をご紹介します。

日本列島には戦国末期から江戸初期にかけて、大小合わせて数千もの城郭が存在していました。それらの大半が失われた中で、現存十二天守が今日まで残ったのは単なる「運の良さ」だけではありません。歴史学および建築保存の記録を紐解くと、そこには3つの決定的な生存理由が浮かび上がります。

1. 明治の「廃城令」と民間有志による必死の買い戻し運動

最初の最大の危機は、明治6(1873)年に明治政府が出した「廃城令(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)」でした。これにより全国の城は軍用地として利用される「存城」と、売却・破却される「廃城」に二分されました。多くの天守が二束三文で競売にかけられ、薪や瓦の資材として解体されていったのです。

この危機を救ったのは、地域の先人たちによる強い郷土愛と文化財保護への執念でした。姫路城では陸軍省の軍医長代理らが保存を嘆願し、松本城では地元有力者の市川量造らが博覧会を開催して資金を集め、競売で買い戻すことに成功しました。松江城もまた、地元有志の高城権八らが私財を投じて天守の落札・保存を成し遂げています。行政任せではなく、市民が自らの手で文化を守り抜いた歴史的事実が存在します。

2. 軍事拠点化と皇室・要人による保存介入

城郭が陸軍の連隊司令部や鎮台の敷地として活用されたことも、結果的に天守の延命につながりました。軍用地として立入が厳格に制限されたため、無計画な開発や民間による解体を免れた事例が散見されます。

また、彦根城のように、明治11(1878)年の明治天皇巡幸の際、天皇の側近であった大隈重信らがその保存状態の良さと壮麗さに感銘を受け、天皇への上奏を経て特例として取り壊しが中止されたという劇的なドラマも残されています。

3. 第二次世界大戦の空襲被害からの奇跡的な回避

近代における最後の危機が、昭和20(1945)年の太平洋戦争末期における米軍の無差別都市空襲でした。実は、戦前まで国宝に指定されていた名古屋城、岡山城、和歌山城、広島城、福山城、仙台城大手門などの貴重な木造天守は、すべてこの空襲で焼失しています。

現存する12城のうち、地方都市に位置し大規模爆撃の第一目標から外れた城や、激しい空襲に見舞われながらも「焼夷弾が天守屋根を貫通したものの不発弾となって延焼を免れた」という奇跡的な出来事が記録されている姫路城など、極限の偶然と消火にあたった市民・消防団の決死の防護活動が重なり、現在までその雄姿を伝えるに至っています。

高橋 健太

高橋 健太

ライフスタイル編集者

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。

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