原爆の子の像に世界から折り鶴が集まる理由|佐々木禎子の真実と現在
原爆の子の像に世界から折り鶴が集まる理由|佐々木禎子の真実と現在を徹底追究! 読者が気になる 情報と解説を凝縮して配信します。
1955年10月25日、禎子さんは12年の短い生涯を閉じました。深い悲しみに包まれたのは、広島市立幟町中学校の同級生たちです。葬儀の日、級友たちの間から「禎子のために何か形に残るものを作りたい」「原爆で亡くなったすべての子どもたちの慰霊碑を建てよう」という声が自発的に沸き上がりました。
生徒たちは「広島平和をきずく児童生徒の会」を結成。街頭に立って市民へ募金を呼びかけると同時に、全国の小・中・高校へ支援を求める手紙を送りました。子どもたちの切実な訴えは瞬く間に全国へ波及し、全国約3100校の学校や海外からの寄付を含め、当時の金額で約540万円(現在の貨幣価値で数千万円相当)もの資金が集まりました。
像の制作を手がけたのは、当時東京芸術大学教授を務めていた著名な彫刻家・菊池一雄(きくち かずお)氏です。菊池氏は子どもたちの熱意に応え、三脚の台座の頂上に金色の折り鶴を掲げて立つ少女の像をデザインしました。台座の左右には明るい未来を象徴する少年少女の像が配され、1958年5月5日のこどもの日に、広島平和記念公園内で除幕式が執り行われました。