日本地図を作った人は誰?伊能忠敬だけじゃない驚きの歴史と真相
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日本地図の歴史において、最もドラマチックかつ感動的なエピソードが、忠敬の死をめぐる弟子の隠蔽工作です。
忠敬は第10次測量を終えた後、集大成となる『大日本沿海輿地全図』の最終製図作業に没頭していました。しかし、長年の過酷な旅路で体力を消耗し、持病の気管支炎や喘息が悪化。地図の完成を見ることなく、1818年(文政元年)4月、73歳で病死しました。
当時、国家プロジェクトの中心人物が亡くなれば、幕府からの予算や事業自体が打ち切られ、未完成のまま地図が散逸・廃棄される恐れがありました。師匠の悲願をどうしても形にしたいと願った弟子たちと、至時の息子である天文方・高橋景保(たかはしかげやす)は、重大な決断を下します。
それは、「忠敬が生きていることにして地図作成を極秘裏に続行する」という前代未聞の隠蔽でした。
弟子たちは忠敬の遺体を密かに埋葬し、幕府には病気療養中と偽りながら、膨大な測量図面を貼り合わせ、彩色を施す最終作業を3年間続けました。そして1821年(文政4年)7月、大図214枚、中図8枚、小図3枚からなる壮大な『大日本沿海輿地全図』がついに完成。幕府上層部に地図を献上した直後、弟子たちは「伊能忠敬、逝去」を正式に届け出たのです。