岸信介はなぜ昭和の妖怪と恐れられたか?A級戦犯から安保改定の真実

岸信介はなぜ昭和の妖怪と恐れられたか?A級戦犯から安保改定の真実について知っておくべき 事実を厳選して解説いたします。

岸信介の政治キャリアにおいて最大のクライマックスであり、戦後最大の政治的危機となったのが1960年の日米安全保障条約改定でした。

1951年に吉田茂が署名した旧安保条約は、米軍の日本駐留を認める一方でアメリカ側に日本防衛の義務が明記されておらず、米軍が内乱鎮圧に出動できる条項が存在するなど、日本の主権が著しく制限された不平等条約でした。岸はこの不平等性を解消し、日米を対等な防衛パートナーシップに引き上げることを悲願としました。新条約では、アメリカに対日防衛義務を課し、在日米軍の配置や装備の変更に対する「事前協議制」を導入するなど、日本の防衛主権を大幅に強化する内容が盛り込まれました。

しかし、当時の日本社会は冷戦下の激しいイデオロギー対立の中にありました。「条約改定によって日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」という恐怖感が広がり、革新勢力や学生組織(全学連)、労働組合を中心とする空前絶後の「安保闘争」が勃発します。数十万人のデモ隊が連日国会を取り囲み、警官隊との衝突により東大生の樺美智子さんが命を落とす悲劇まで発生しました。

岸は1960年5月19日、警官隊を国会内に導入して野党議員を排除し、新条約を単独で強行採決。翌月、新安保条約は自然成立を迎え、目的を達成した岸は「国会周辺は騒々しいが、銀座や後楽園球場は普段通りだ。サイレント・マジョリティは支持している」という趣旨の発言を残し、条約の批准書交換を見届けた直後に退陣を表明しました。

激動のドラマはそれだけで終わりませんでした。退陣直前の1960年7月14日、首相官邸の祝賀会において、岸は右翼活動家の荒牧退助に襲撃され、左太ももをナイフで深く刺される暗殺未遂事件に遭遇します。重傷を負いながらも一命をとりとめた岸は、血染めの姿で担架に運ばれながらも落ち着きを失わなかったと伝えられています。

首相退陣後も自民党最高顧問として影響力を保ち続けた岸は、1987年(昭和62年)8月7日、心不全のため90歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。満州国の建設から敗戦、安保改定という激動の昭和史を文字通り体現した最期でした。

山本 拓海

山本 拓海

ヘルス&ウェルネスアドバイザー

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

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