夏草や兵どもが夢の跡の真実|芭蕉が平泉で流した涙と義経の最期

夏草や兵どもが夢の跡の真実|芭蕉が平泉で流した涙と義経の最期の特集記事をご紹介します。役立つ情報が満載です。

なぜ平泉で「兵ども」が夢の跡となって消え去らなければならなかったのか。その背景には、血を分けた兄弟の政治闘争と、世代交代に伴う外交戦略の崩壊という過酷な背景と理由が存在します。

平家滅亡の最大の功労者であった源義経は、後白河法皇から頼朝の許可なく官位(左衛門少尉・検非違使)を受けたことや、類まれな軍事的天才ゆえの独断専行が災いし、兄・頼朝の激しい怒りを買いました。鎌倉を追われ、全国に指名手配された義経が最終的に頼ったのが、少年期を過ごした平泉の主・藤原秀衡でした。

秀衡は義経の才覚を高く評価し、彼を将軍として擁立して鎌倉に対抗する構想を描いていました。しかし、文治3年(1187年)、秀衡は病に倒れます。死の床で秀衡は、後継者の藤原泰衡に対し「義経を主君として結束し、頼朝の侵略に備えよ」と固い遺言を残しました。

ところが、当主となった泰衡は鎌倉の軍事力と政治工作の前に精神的に追い詰められていきます。頼朝は朝廷を通じて執拗に「義経を匿うことは反逆である」と圧力をかけ続けました。保身と恐怖に駆られた泰衡は、父の遺言を破る決断を下します。文治5年閏4月30日、泰衡は500騎余りの兵を率いて、義経が妻子とともに暮らしていた高館の館を急襲しました。

弁慶をはじめとするわずかな家臣たちが奮戦し、弁慶の立ち往生などの伝説を残しながら討ち死にしていく中、義経は持仏堂に籠もり、正室と幼い娘をみずからの手で手にかけた後、静かに腹を切って自刃しました。享年31の若さでした。

しかし、泰衡が義経の首を鎌倉に届けて恭順の意を示しても、頼朝の領土的野心が消えることはありませんでした。頼朝は「勝手に義経を討ったこと」を口実に、全国から総勢28万騎と号される空前の軍勢を動員して奥州へ進撃を開始します。泰衡は防戦に失敗して敗走し、最後は自らの家臣の裏切りによって首を刎ねられました。父の戒めを破り、英雄を犠牲にしてまで守ろうとした奥州藤原氏の平泉王国は、義経の死からわずか4カ月後に完全消滅したのです。

山崎 陸

山崎 陸

ガジェット&アプライアンスライター

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