京都はなぜ戦火を免れたのか?原爆標的除外の真相と空襲被害の実態

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京都の都市史を俯瞰すると、この街は太平洋戦争以前にも幾度となく壊滅的な兵火に見舞われ、その都度不死鳥のように再生してきた歴史を持っています。「京都における最大の戦乱」として市民の間で語り草となっているのが、室町時代後期の応仁の乱です。11年間にわたる市街戦により、平安京以来の貴族邸宅や壮麗な寺社仏閣の大部分が焼失し、市街地は文字通り荒野と化しました。

近代の幕開けとなった幕末期にも、京都は凄惨な戦場となりました。1864年の禁門の変(蛤御門の変)では、長州藩と薩摩・会津・幕府軍が御所周辺で激突し、発生した大火(どんどん焼け)によって市街地の約3万戸が灰燼に帰しました。さらに1868年の鳥羽伏見の戦いでは、最新の西洋式火砲が投入され、伏見の町並みを中心に深刻な被害を出しています。

合戦・事変名発生年代・主な被害規模都市への影響・消失範囲歴史的評価と都市の再生応仁の乱1467〜1477年(死者数万人規模)上京・下京の主要部がほぼ全焼町衆(市民自治組織)の台頭と町割りの再構築を促進禁門の変(蛤御門の変)1864年(焼失家屋 約27,000〜30,000戸)市街地中心部の約8割が「どんどん焼け」で延焼幕末の政治混乱を激化させ、明治維新への決定打に鳥羽伏見の戦い1868年(伏見市街の広範囲が類焼)街道沿いの民家・旅籠が激しい砲撃戦で焼失旧幕府軍の敗走と近代国家形成の軍事的分水嶺第二次世界大戦(京都空襲)1945年(死傷者数百名、被災家屋数百戸)西陣・馬町・太秦・京都駅周辺など局地的被災原爆標的による温存を経て、戦後国際観光文化都市へ指定
山本 拓海

山本 拓海

ヘルス&ウェルネスアドバイザー

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

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