朝永振一郎の何が凄いのか?くりこみ理論の真相と湯川秀樹との光と影
朝永振一郎の何が凄いのか?くりこみ理論の真相と湯川秀樹との光と影について知っておくべき 理由を厳選して解説いたします。
朝永振一郎を語るうえで避けて通れないのが、生涯の友でありライバルであった湯川秀樹との関係です。二人の経歴と生涯は、まるで運命の糸で縫い合わされたかのように重なり合っています。
1906年生まれの朝永と、1907年生まれの湯川(旧姓・小川)。京都帝国大学理学部の同期生として出会った二人は、まだ量子力学の黎明期だった日本で、机を並べて最新のドイツ語論文を読み耽る仲でした。しかし、二人の資質と性格は完全に対極でした。直観的で寡黙、情熱を内面に秘めて既存の枠組みを根底から壊す革命児タイプの湯川に対し、朝永は論理の破綻を徹底的に嫌い、繊細で疑い深く、物事を緻密に積み上げていく職人肌でした。
1949年、湯川が中間子論で日本人初のノーベル賞を受賞した際、日本中が熱狂の渦に包まれました。敗戦に打ちひしがれていた国民にとって湯川は救国の英雄となったのです。その陰で、朝永がどれほどの苦悩と孤独を抱えていたかは、自著や当時の日記の記述に如実に表れています。世間からは常に「湯川の親友の朝永」「湯川に続く男」と比較され、新聞記者からは「朝永先生、湯川さんに先を越されてどう思われますか?」と心ない質問を浴びせ続けられました。
当時の手記において朝永は、胃潰瘍に苦しみ、自信を喪失しながら研究室のデスクで呻吟していた生々しい胸中を告白しています。心理学でいう「強烈な同胞コンプレックス」の渦中にありながら、朝永は腐ることなく自らの理論の精密化に没頭しました。湯川がノーベル賞を受賞したわずか数年後、朝永のくりこみ理論の国際的評価が確立し、1965年の受賞に至った瞬間、二人は名実ともに「日本の物理学の両輪」として歴史に刻まれることになったのです。
そして、この二人を育て上げたのが、日本の現代物理学の父と呼ばれる仁科芳雄でした。朝永は大学卒業後、理化学研究所(理研)の仁科研究室に入所します。仁科がコペンハーゲンでニールス・ボーアから持ち帰った「自由闊達に議論し、肩書や年齢に関係なく真理のみを追究する」というコペンハーゲン精神は、朝永の学問的血肉となりました。恩師・仁科芳雄との深い師弟関係があったからこそ、朝永は徒手空拳の戦時下でも世界基準の研究を諦めなかったのです。