諏訪の浮城・高島城の見どころ総解剖!歴史の真相と天守の魅力を徹底取材
諏訪の浮城・高島城の見どころ総解剖!歴史の真相と天守の魅力を徹底取材に関する主要なデータを分かりやすく解説いたします。
高島城の代名詞ともいえるのが「諏訪の浮城」という雅称です。現在現地を訪れると、周囲は整備された住宅街や市街地に囲まれており、「なぜ浮城なのか」と疑問を抱く観光客も少なくありません。しかし、江戸時代初期までの縄張り図や当時の地誌を紐解くと、現在の景観からは想像もつかない劇的な水上防壁の姿が浮かび上がってきます。
文禄元年(1592年)の着工当時、城郭郭の敷地は諏訪湖の波打ち際ギリギリに位置し、北側と西側は広大な諏訪湖の水面に直接面していました。さらに南側には衣之渡川(現在の上川水系)、東側には湿地帯が広がり、本丸へ至るアプローチは極めて限定されていたのです。諏訪湖から吹き寄せる白波が直接石垣を洗う光景は、遠方から眺めると城全体が湖水にぽっかりと浮かんでいるように映り、これが諏訪の浮城と呼ばれる理由となりました。
この前代未聞の要塞化を成し遂げたのが、築城主日根野高吉の経歴と真相に深く結びついています。日根野織部正高吉は、美濃の斎藤氏、織田信長、豊臣秀吉と渡り歩いた歴戦の武将であり、とりわけ信長の安土城築城や秀吉の大坂城築城において普請(土木工事)の中枢を担った「築城のエキスパート」でした。天正18年(1590年)、秀吉の命によって諏訪2万7千石に封じられた高吉は、それまで諏訪氏が拠点としていた山城の茶臼山城(旧高島城)を放棄。諏訪湖の水運を掌握し、武田遺臣や土豪の不穏な動きを抑え込むため、あえて泥濘化しやすい諏訪湖畔の軟弱地盤を埋め立てる難工事を決断したのです。
地盤沈下を防ぐため、高吉は大量の松の丸木を筏状に組んで基礎として沈める特殊な土木工法を採用したと伝えられています。湖水そのものを天然の巨大な水堀へと昇華させたこの設計思想は、近世城郭における水城の嚆矢とも呼ぶべきものであり、実戦を想定した冷徹な防衛計算の賜物でした。