ウィー・アー・ザ・ワールド歌唱順と参加者一覧!プリンス不参加の真相
ウィー・アー・ザ・ワールド歌唱順と参加者一覧!プリンス不参加の真相を詳しくリサーチ! 知っておきたい トピックの裏側を凝縮して配信します。
プロジェクトの口火を切ったのは、黒人エンターテイナーの草分けであり社会活動家でもあったハリー・ベラフォンテの強い義憤でした。当時、エチオピアをはじめとする東アフリカ地域は未曾有の干ばつと飢饉に見舞われ、100万人以上が餓死の危機に瀕していました。英国ではすでにボブ・ゲルドフらの主導で「バンド・エイド」が結成され、『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?』がヒットしていましたが、ベラフォンテは「白人アーティストたちがアフリカを救おうとしているのに、黒人である我々自身が何もしていないのはおかしい」と危機感を抱いたのです。
ベラフォンテから相談を受けた敏腕マネージャーのケン・クラゲンは、自身がマネジメントを担当していたライオネル・リッチーやケニー・ロジャースに即座に打診。さらにライオネルを通じて稀代のプロデューサーであるクインシー・ジョーンズ、そして当時『スリラー』で世界を席巻していたマイケル・ジャクソンへと情熱が伝播しました。
楽曲の制作は1985年1月中旬、マイケルの自宅(エンシノのヘイブンハースト邸)で行われました。ライオネルとマイケルは多忙なスケジュールの合間を縫い、何日もピアノに向き合ってメロディと歌詞を練り上げました。マイケルは誰もが歌いやすく、かつ讃美歌のように荘厳で普遍的なフックを持つアンセムを目指し、完成したデモテープは参加予定のアーティストたちへと極秘裏に送られたのです。
レコーディング日として選ばれたのは、1985年1月28日。全米中のトップミュージシャンが一同に介する「アメリカン・ミュージック・アワード(AMA)」の授賞式当日の夜でした。授賞式が終わった直後の深夜から翌朝にかけてスタジオを押さえることでのみ、これだけのスーパースターを1箇所に集めることが可能だったのです。