大田南畝の二面性|幕府官僚と狂歌師・蜀山人の知られざる真相
大田南畝の二面性|幕府官僚と狂歌師・蜀山人の知られざる真相の見逃せないポイントを徹底的にカバーしました。
天明の自由闊達な空気は、老中・田沼意次の失脚と松平定信による「寛政の改革」の開始によって一変します。定信は風紀粛正と出版統制を断行。浮世絵師の喜多川歌麿は処罰され、戯作者の山東京伝は手鎖五十日の刑に処され、恋川春町に至っては幕府からの召喚直前に謎の死(自死説が有力)を遂げました。
狂歌界のトップとして君臨していた南畝にも、当然ながら厳しい視線が注がれました。世間では「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといふて 夜もねられず」(文武奨励策を風刺した狂歌)の作者が南畝ではないかと噂され、筆禍の危機が目前に迫っていたのです。
ここで南畝が見せた行動こそ、彼の真骨頂でした。彼は一切の弁明や体制への抵抗を行わず、狂歌界の表舞台から完全に姿を消したのです。「筆を折る」という選択は、文人としての敗北ではなく、生き残るための高度な危機管理でした。彼は自ら創作活動を封印し、前述の「学問吟味」に全精力を注ぎ込むことで、「私は体制に従順な優秀な幕臣である」というメッセージを行政トップに証明してみせました。
後に政情が安定し、定信が老中を退いてからは、再び「蜀山人」として揮毫や随筆の執筆を再開します。体制と正面衝突して命を落とすのではなく、嵐が過ぎ去るまで沈黙を守り、時機を待って別のかたちで自己を表現する。この柔軟なしたたかさこそ、彼が命脈を保ち続けた最大の理由でした。