凌遅とは何か?中国史上最も残酷な処刑のやり方と廃止の真相

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中国の正史や当時の官僚の日記には、凌遅に処された著名人の凄惨な記録が数多く残されています。その中でも中国史上最も残酷な刑罰の象徴として語り継がれるのが、明代中期の専権宦官・劉瑾(りゅうきん)の処刑です。

1510年、正徳帝を操り国政を壟断した劉瑾は、皇位簒奪を企てた罪で捕縛され、「凌遅三日」の判決を受けました。当時の刑務官であった張瀚が記した記録によると、絶命するまでに下された刃の数は実に3,357刀に及びました。1日目には数百枚の肉が削ぎ落とされながらも劉瑾は夜に粥を啜る気力が残っていたとされ、2日目に肺や胸郭部を切り刻まれる中で絶命。息絶えた3日目もなお、司法の宣告通りに遺骸は骨になるまで細かく刻まれ続けました。

また、1542年に嘉靖帝の暗殺を企てた宮女・楊金英ら(壬寅宮変)も、主犯の王寧嬪とともに市街で公開の凌遅処死に処されています。皇帝の就寝中に首を絞めて暗殺しようとした宮女たちは、皇帝の怒りによって一切の慈悲を排され、極刑台の露と消えました。

しかし、歴史上最も民衆の狂気と国家の理不尽さを露呈させたのは、明末の英雄・袁崇煥(えんすうかん)の処刑でしょう。袁崇煥は後金(後の清)の侵略から国境を守り抜いた稀代の名将でしたが、ホンタイジの巧みな離間工作(反間計)に嵌った暗君・崇禎帝によって売国奴の汚名を着せられ、1630年に凌遅を宣告されました。『明季北略』の記録によると、北京の民衆は袁崇煥を祖国を売った奸臣と信じ込み、処刑場で切り落とされる彼の肉を金を出して争うように買い求め、その場で生食して酒の肴にしたと伝えられています。真実の忠臣が無知な群衆と冷酷な権力によって解体されたこの事件は、明朝滅亡の決定的な象徴として後世に刻まれています。

中村 さくら

中村 さくら

マネー&キャリアエディター

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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