ペリリュー島の戦い|73日死闘の真相と中川大佐の決断【2026年版】

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ペリリュー島の戦い(米軍作戦名:ステールメイトII作戦)がなぜこれほどの泥沼化した激戦となったのか。最大の要因は、日本陸軍の防衛ドクトリンがこの島で「180度転換」された点にあります。

それまでのサイパンやガダルカナルなどにおける島嶼防衛戦では、海岸線で敵を迎え撃つ「水際撃滅」と、弾薬や食糧が尽きた際の全員突撃(玉砕・バンザイ突撃)が通例でした。しかし米軍の圧倒的な艦砲射撃と航空爆撃の前に水際陣地は容易に粉砕され、夜間の突撃も米軍の濃密な十字火網によって瞬時に壊滅するのが常でした。

この戦訓を痛烈に学んでいた大本営および現地司令部は、ペリリュー島において作戦方針を根本から改定します。海岸での決戦を諦め、島中央部にそびえる堅牢な石灰岩の山岳地帯(米軍通称:ブラディノーズ・リッジ/鼻血の尾根)に縦深陣地を構築。天然の洞窟約500カ所を連結・強化し、強固な複郭陣地群へと改造したのです。

米海兵隊第1師団長のウィリアム・ルパータス海兵少将は、上陸直前に兵士たちへ「この戦いは過酷だが、3日、長くても4日で終わる」と訓示していました。しかし、海岸を突破して内陸へ進んだ米兵を待っていたのは、見えない洞窟から浴びせられる砲火と、一歩進むごとに仲間が狙撃される終わりのないゲリラ戦でした。結果として米軍は、11月27日に島全体の組織的抵抗制圧を宣言するまで、実に2カ月半(73日間)の拘束と莫大な犠牲を強いられることになりました。

山口 彩花

山口 彩花

写真家・フォトエディター

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。

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