水戸黄門と徳川光圀の決定的な違いとは?波乱の生涯と功績の真実
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温厚で知的な名君というイメージが強い徳川光圀ですが、若い頃は城下でも恐れられる典型的な不良青年(かぶき者)でした。徳川家康の孫という絶対的な権力を背景に、派手な着物を着崩して吉原などの遊郭に入り浸り、夜な夜な町を徘徊していたと伝えられています。時には町民と喧嘩騒ぎを起こし、真偽は定かではないものの辻斬りに及んだという記録まで残されているほどです。
光圀が荒れた背景には、複雑な家庭環境がありました。父である初代水戸藩主・徳川頼房の意向により、光圀は兄・頼重を差し置いて水戸藩の跡継ぎに指名されます。兄への強い罪悪感と世継ぎとしての重圧が、若き日の光圀の心を激しく屈折させていました。
転機が訪れたのは18歳の時です。中国の歴史書『史記』の「伯夷・叔斉伝(はくい・しゅくせいでん)」を読んだ光圀は、兄弟互いに国を譲り合って節操を守った古代中国の賢人の生き方に強い感銘を受けます。「己の進むべき道は放蕩ではなく、学問と正しい道義にある」と深く悔い改めた光圀は、それまでの悪友を断ち切り、髪を整えて猛烈に学問へ打ち込むようになりました。