なぜ松島は日本三景に?芭蕉の真相と2026年最新の歩き方を徹底解説
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松島を語る上で避けて通れないのが、日本文学史に燦然と輝く俳聖・松尾芭蕉のエピソードです。世間一般では「松島や ああ松島や 松島や」という名句を芭蕉が詠んだと広く信じられていますが、これは完全に後世の誤認です。
文学界および宮城の郷土史料の定説によれば、この句は江戸時代後期の狂歌師・田原坊(たわらぼう)が記した狂歌の改変版、あるいは後世の文士によるパロディであることが判明しています。では、元禄2年(1689年)に『おくのほそ道』の旅路で松島を訪れた芭蕉は、一体どうしていたのでしょうか。
自著『おくのほそ道』の記述を確認すると、芭蕉は松島のあまりの絶景と神々しさに感情を極限まで揺さぶられ、言葉を失って涙を流し、夜も眠れずに悶々としたと記録されています。類まれなる語彙と感性を持った芭蕉ですら、松島の美を前にしては「句を詠むことができず絶句した」というのが偽らざる真相なのです。その夜、芭蕉に代わって句を残したのは弟子の河合曾良であり、曾良が詠んだ「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が紀行文に収められています。
芭蕉の心をそこまで震わせた松島は、奥州藤原氏や伊達政宗の祈りが息づく一大霊場でもありました。平安初期の828年、慈覚大師円仁によって開山された延福寺を起源とし、慶長14年(1609年)に伊達政宗公が5年の歳月をかけて建立したのが、国宝・瑞巌寺です。政宗は京都や根来から名工130人を呼び寄せ、豪壮な桃山様式の本堂や庫裏を完成させました。さらに、湾の突端に佇む五大堂(重要文化財)は、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が建立した毘沙門堂を起源とし、政宗が再建した東北最古の桃山建築として知られています。足元が透けて見える「透かし橋」は、魔を祓い、身を引き締めて参拝するための意匠であり、訪れる者に心地よい緊張感を与え続けています。