中国史上最恐の凌遅刑とは?戦慄の処刑手順と1905年廃止の真相

中国史上最恐の凌遅刑とは?戦慄の処刑手順と1905年廃止の真相の具体的な内容に迫る! わかりやすい言葉でまとめました。

凌遅刑の犠牲となったのは、希代の悪人や反逆者だけではありません。権力抗争の敗者や、敵の策略に嵌められた悲劇の英雄たちもこの苛烈な刃に倒れました。

その代表例が、明代末期に満州族の後金軍から北京を死守した名将・袁崇煥(えんすうかん)です。敵軍の侵攻を幾度も防いだ彼でしたが、後金軍の仕掛けた離間計(スパイ工作)に引っかかった崇禎帝により反逆の濡れ衣を着せられ、1630年に凌遅処死を宣告されました。

袁崇煥の処刑時、敵に通じた国賊と信じ込まされた北京の民衆は狂乱し、削ぎ落とされた彼の肉を争うように買い取って食らったという凄惨な記録が残されています。後に清の乾隆帝の時代になって袁崇煥の無実が公式に証明されましたが、失われた名誉と悲惨すぎる最期は歴史の暗部として今も語り継がれています。

また清朝末期の1864年、太平天国の乱が鎮圧された際には、第2代指導者であった洪天貴福(洪秀全の長男)がわずか15歳(満14歳)前後で捕らえられ、凌遅刑に処されました。南昌の刑場で千刀以上を浴びせられた記録があり、王朝の威信を保つためには未成年であっても容赦しない専制国家の苛烈さを示しています。

伊藤 翔太

伊藤 翔太

フード&トラベルライター

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。

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