廃仏毀釈の真実|国宝が薪にされた理由と明治維新の暗部を暴く
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廃仏毀釈の嵐は全国一律に吹いたわけではありません。平穏を保った地域がある一方で、狂信的かつ徹底的な宗教絶滅政策が実行された地域が存在しました。その筆頭が、維新の立役者であった薩摩藩(鹿児島県)です。
廃仏毀釈における薩摩藩の真相は、まさに国家規模の文化消滅でした。薩摩藩主・島津斉彬の死後、実権を握った島津久光らの主導のもと、明治2年(1869年)から苛烈を極める廃仏運動が開始されました。結果として、藩内に存在した寺院1,066寺がすべて廃寺となり、2,900人を超える僧侶全員が強制的に還俗させられました。鹿児島県内からは、文字通り寺院が一軒も存在しないという異常事態が数年間にわたって続いたのです。
なぜ薩摩藩はこれほど過激だったのか。そこには神道国教化という建前を隠れ蓑にした、「軍備近代化」と「財政難の打開」という極めて生々しい経済的理由がありました。薩摩藩は長年莫大な借財を抱えており、近代的な銃器や軍艦を購入するための金属資源を渇望していました。寺院から没収した梵鐘や仏具は溶かされて大砲や弾丸へと鋳造され、さらには貨幣(天保通宝など)の原料として再利用されたのです。思想的な狂乱の裏には、冷酷な軍事・経済的計算が働いていました。