足利歴代将軍15人の光と影!室町幕府の盛衰と真相を徹底解剖
足利歴代将軍15人の光と影!室町幕府の盛衰と真相を徹底解剖にまつわる最新トピックを詳しく紐解きます。
義満の手によって絶頂を迎えた室町幕府ですが、わずか半世紀後には急速な弱体化の道を辿ります。その転換点となったのが、第6代将軍・足利義教の恐怖政治と、第8代将軍・足利義政の治世で勃発した応仁の乱です。
義教は、前代の義持・義量の急逝に伴い、前代未聞の「くじ引き」によって青蓮院門跡の僧侶から将軍に選出されました。神仏の後ろ盾を背景に就任した義教は、低下しつつあった将軍権力の再強化を図り、比叡山延暦寺の焼き討ちや有力守護大名の処刑など、極めて苛烈な専制統治を推進。当時の貴族・山科教言が日記『教言卿記』で「万人恐怖、口にすべからず」と書き残したほどの独裁体制を敷きました。しかし、この専制は守護大名たちの疑心暗鬼を招き、1441年の「嘉吉の乱」において播磨守護・赤松満祐による将軍暗殺という最悪の結末を呼び寄せることになります。
義教の横死後、幼少の将軍が続いたことで将軍権力は著しく失墜。第8代・足利義政の時代には、幕府の政策決定権は細川氏や山名氏といった有力守護大名や、義政の正室・日野富子の手に委ねられることになりました。そして、義政の実弟・足利義視と実子・足利義尚の間で生じた後継者争いに、畠山氏・斯波氏の家督争いが連動し、1467年に応仁の乱が勃発します。
京都が焦土と化し、戦火が11年間も続く中、義政は政治への関心を完全に喪失。東山に隠棲して銀閣寺(慈照寺観音殿)の造営や茶の湯・連歌・能楽などの東山文化へ逃避しました。この結果、地方の守護大名は領国に下向して戦国大名化し、幕府の命令系統は完全に崩壊。これが室町幕府滅亡の構造的理由となりました。