沖縄戦の高級参謀・八原博道はなぜ生き残ったか|持久作戦の真相と評価
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1945年6月下旬、米軍の猛攻により第32軍は首里を放棄し、沖縄本島最南端の摩文仁(まぶに)の丘へと追い詰められます。洞窟司令部内は負傷者の呻き声と硝煙が立ち込め、まさに地獄絵図と化していました。
6月23日未明、第32軍司令官の牛島満中将と参謀長の長勇(ちょう いさむ)少将は、責任を取って割腹自決を遂げます。武士道精神に殉じることが軍人としての名誉とされた当時、作戦の立案者である八原高級参謀も当然のように司令官らとともに自決する覚悟を固めていました。
しかし、牛島司令官は割腹の直前、八原の自決を断固として押し留め、次のような峻烈な命令を下したのです。
「八原大佐、貴官は死んではならん。後顧の憂いなく私は逝く。貴官は生き延びて、大本営に沖縄戦の実相を報告し、将来の国防と後世への教訓としてこの戦歴を伝えよ」
死んで名誉を得ることよりも、汚辱に耐えて生き恥を晒しながら任務を完遂することのほうが遥かに過酷です。牛島司令官は、合理的で筆力にも優れた八原に「沖縄戦の生き証人」たる役割を託しました。
八原は民間人の平服に着替え、難民に紛れて摩文仁の壕を脱出しました。その後、具志頭村付近の壕に潜伏を続けましたが、同年7月15日、米軍の捜索隊に発見されて捕虜となります。収容所内での尋問を通じて正体が判明した際、米軍尋問官は「まさか沖縄戦の頭脳である高級参謀が生きているとは」と驚嘆したと記録されています。