韓国の全羅道差別はなぜ続くのか?慶尚道との対立と歴史の真相
韓国の全羅道差別はなぜ続くのか?慶尚道との対立と歴史の真相とは一体何なのか? 詳しい意味を丁寧に紐解いて紹介します。
韓国における地域対立を読み解く上で欠かせないのが、「嶺南(ヨンナム=慶尚道)」と「湖南(ホナム=全羅道)」という地理的・歴史的区分です。全羅道に対する蔑視の起源として、三国時代の百済(全羅道・忠清道)と新羅(慶尚道)の確執や、高麗王朝の創始者・王建が残した遺訓『訓要十条』で公州・公州以南(車嶺山脈の南側)の人物登用を警戒した記述が挙げられることがあります。しかし、歴史学界の共通認識として、現代に直結する苛烈な地域感情の直接的な起爆剤となったのは1960年代以降の急激な産業化と軍事政権の統治戦略です。
朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領をはじめ、全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)ら歴代の軍事政権トップはいずれも慶尚道出身でした。政権はソウルと釜山を結ぶ「京釜軸」を中心に高速道路や重化学工業団地を集中的に整備し、全羅道は工業化から取り残されて農業地帯のまま据え置かれました。この経済格差に加え、政官界・財閥の要職が慶尚道出身者で独占されたことで、全羅道の人々は「二等市民」としての疎外感を深めていくことになります。
さらに、1971年の大統領選挙において、慶尚道出身の朴正煕候補と全羅道出身の金大中(キム・デジュン)候補が激突した際、政権側が地域感情を煽る選挙戦略を展開したことが、両地域の対立を決定的に固定化させました。