瀬戸内寂聴の本名と改名の真相|晴美から法名へ波乱の生涯を解明
瀬戸内寂聴の本名と改名の真相|晴美から法名へ波乱の生涯を解明にまつわる興味深い視点を分かりやすく発信ます。
寂聴の人生を語る上で避けて通れないのが、若き日に置き去りにした夫と幼子に対する罪障感です。20代半ば、当時まだ3歳だった実の娘と夫を残して家を飛び出した事実は、世間からの厳しい道徳的糾弾の的であり続けました。
出家後、彼女はこの過去を隠蔽することなく、むしろ自らの法話やエッセイにおいて「自分は母親失格の悪女であった」と包み隠さず語り続けました。置き去りにされた長女とは、戦後数十年を経て再会を果たしています。長女が成人し家庭を持った後、少しずつ対話を重ね、晩年には寂庵を訪れるなど確執の雪解けを迎えました。しかし寂聴自身は、「母として許されたとは思っていない。その十字架は死ぬまで背負い続ける」と漏らしていました。
また、彼女を狂わせた作家・井上光晴の家族との関係は、常識的な世俗の道徳観を遥かに超越した展開を見せます。井上の妻であった郁子夫人は、寂聴と夫の不倫関係を知りながらも、一人の自立した女性として寂聴を認め、奇妙な敬愛関係を築き上げました。1992年に井上光晴が食道癌で亡くなった際、寂聴は郁子夫人に請われて枕元で読経を行い、後年に郁子夫人が亡くなった際にはその葬儀で心のこもった弔辞を捧げています。
泥沼の愛憎関係を単なる破局で終わらせるのではなく、出家と改名という精神的昇華を経て、当事者全員が人間としての深い絆へと再編していくプロセスは、彼女の類まれな人間的器量を示しています。2021年11月9日、京都市内の病院にて満99歳で息を引き取った際の死因は心不全でした。最期は愛弟子やスタッフに静かに見守られ、かつて世間を騒がせた愛憎の炎は、まさに「寂静」の境地へと還っていきました。