信長の美濃攻略と稲葉山城の戦い|難攻不落の要塞が陥落した真の勝因
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稲葉山城の戦いをわかりやすく捉えるためには、信長が尾張を統一してから美濃攻略を完遂するまでの長い歳月と、執拗な包囲網の形成過程を時系列で把握する必要があります。
合戦が最終局面を迎えた稲葉山城の戦いの年号はいつかといえば、永禄10年(1567年)8月です。しかし、信長の美濃侵攻はその前年に始まった突発的な軍事行動ではありません。弘治2年(1556年)、斎藤道三が実子・義龍との「長良川の戦い」で討死した際、道三が娘婿である信長に美濃を譲る旨を記したとされる斎藤道三の国譲り状を信長が錦の御旗として掲げた瞬間から、美濃争奪戦の火ぶたは切られていました。
信長にとって、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った直後から、美濃攻略は尾張防衛と上洛に向けた最優先課題でした。織田信長の美濃攻略の経緯を辿ると、決して順風満帆な快進撃ではなかったことが分かります。
斎藤義龍が病没し、わずか14歳の斎藤龍興が家督を継いだ永禄4年(1561年)以降、信長は連年のように美濃へ兵を進めました。しかし、森部の戦いや新加納の戦いにおいて、織田軍は斎藤軍の頑強な抵抗や伏兵戦術に阻まれ、手痛い敗戦を喫しています。平野部での野戦で局地的な勝利を収めても、金華山の峻険な山頂に鎮座する稲葉山城へは指一本触れられない膠着状態が数年間続いたのです。
局面を打破するため、信長は力攻めを放棄し、北近江の浅井長政と同盟を結んで斎藤家の退路と支援ルートを断ち切る外交戦略へとシフトしました。外堀を一段ずつ埋めていく地道な圧迫策こそが、最終的な電撃戦の下地となっていたのです。