保元の乱とは?崇徳上皇Vs後白河天皇の真相と武士台頭の転換点
保元の乱とは?崇徳上皇Vs後白河天皇の真相と武士台頭の転換点とはどのようなものなのか? 背景や要点を整理してお届けします。
軍記物語の傑作『保元物語』のあらすじを辿ると、保元元年7月10日夜から11日未明にかけて繰り広げられた合戦は、きわめて緊迫した心理戦と戦術のぶつかり合いでした。
崇徳上皇陣営の拠点となったのは、白河にあった「白河北殿」です。ここに集結した武士たちの中で、軍事的な主導権を握ったのが10代後半にして圧倒的な武名を馳せていた源為朝でした。為朝は生まれつき左腕が右腕より数寸長く、五人張りの強弓を軽々と引く怪物と恐れられていました。為朝は藤原頼長に対し、大胆な作戦を具申します。
「戦の常道は先手必勝にあります。今夜直ちに高松殿(後白河天皇の拠点)へ夜襲を仕掛け、火を放ちましょう。逃げ出す敵を弓で射止めれば、勝敗は一刻で決します」
しかし、儒教的な格式と貴族の儀礼に縛られていた藤原頼長は、この現実的な軍事提案を「夜討ちは私戦のやること。興福寺の僧兵集団が奈良から到着するのを待ち、白昼堂々と官軍として天下分け目の決戦を行うべきだ」と却下してしまいます。この軍事音痴な判断が、崇徳上皇方の命運を決定づけました。
同じ頃、後白河天皇方の拠点・高松殿でも軍議が開かれていました。東国の実戦で鍛え上げられた源義朝は、信西に対して為朝と全く同じ献策を行います。「戦は先んずれば人を制す。今夜ただちに白河北殿を夜襲すべし」。信西は義朝の提案を即座に採用し、総攻撃の号令を下しました。
7月11日未明、平清盛と源義朝が率いる軍勢が白河北殿へ突入。激戦の最中、為朝は門前に仁王立ちし、清盛の軍勢を狙い撃ちにします。為朝が放った大矢は、平氏方の武者の鎧を貫通し、背後の兜の袖まで突き刺すという人外の威力を発揮。清盛軍は大きな損害を出して一時後退を余儀なくされました。
しかし、源義朝は力攻めの限界を悟ると、風上から白河北殿に火を放ちました。猛火に包まれた白河北殿から上皇方は総崩れとなり、わずか数時間の白兵戦で勝負は決したのです。藤原頼長は逃走中に首に流れ矢を受けて致命傷を負い、実父の忠実に助けを求めたものの拒絶され、失意のうちに舌を噛み切って絶命。崇徳上皇は仁和寺へと逃亡した後に投降し、反乱は鎮圧されました。