なぜ日本初の民間感化院に?東京家庭学校の歴史と留岡幸助の想いを徹底解説
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明治中期の日本は、日清戦争前後の急激な近代化・都市化の波に呑まれ、貧困層の拡大とともに非行少年や浮浪児の増加が深刻な社会問題となっていました。当時の法制度では、罪を犯した少年も大人と同じように監獄へ収監されるケースが多く、更生どころか犯罪の知識を深めて出所するという悪循環が日常化していました。
この惨状を目の当たりにし、強い危機感を抱いたのが牧師の留岡幸助です。留岡は北海道の空知集治監(刑務所)で教誨師を務めるなかで、「犯罪の予防こそが急務であり、悪童と呼ばれる少年たちに必要なのは冷徹な罰ではなく、健全な家庭と教育である」と確信しました。
その後、留岡はアメリカへ渡航し、欧米の先進的な感化教育や刑政制度を徹底的に視察・研究します。帰国後の1899年(明治32年)、東京府北豊島郡巣鴨村(現在の豊島区西巣鴨周辺)の地に、私財と有志の支援を結集して開校した施設こそが東京家庭学校でした。当時としては極めて革新的だった「日本初の民間感化院」の誕生です。