竹中半兵衛と黒田官兵衛はどっちが優秀?松寿丸救出の絆と能力を徹底比較
竹中半兵衛と黒田官兵衛はどっちが優秀?松寿丸救出の絆と能力を徹底比較の真相や最新動向に迫る! 専門的な視点で紐解きます。
両兵衛の絆を語る上で欠かせないのが、天正6年(1578年)に勃発した「有岡城の幽閉事件」です。織田信長に反旗を翻した荒木村重を説得するため、官兵衛は単身で伊丹の有岡城へ乗り込みました。しかし説得は失敗し、官兵衛は土牢に1年余りも幽閉されてしまいます。
音信不通となった官兵衛に対し、激怒した信長は「官兵衛が村重に寝返った」と誤認。秀吉に対し、織田家に人質として差し出されていた官兵衛の嫡男・松寿丸(当時10歳、後の黒田長政)を即刻処刑するよう命じました。信長の厳命に背くことは、秀吉軍団全体の改易・処刑を意味する極限状態でした。
このとき、処刑の執行役を自ら買って出たのが竹中半兵衛でした。半兵衛は信長に対しては「処刑を執行した」と偽りの報告を行い、密かに松寿丸を自領である美濃の菩提山城(栗原山中)へと連れ去り、家臣の不破矢足らに託して匿い続けたのです。
天正7年(1579年)10月、有岡城が落城し、救出された官兵衛は過酷な幽閉生活により脚の自由を失い、頭部には皮膚病の痕が残る無残な姿となっていました。自身が裏切り者と疑われ、最愛の息子が殺されたと思い絶望の淵にあった官兵衛の前に、無傷の松寿丸が現れます。半兵衛の機転と命を懸けた友情を知った官兵衛は、男泣きに暮れたと『黒田家譜』に記されています。
しかし、この再会の場に半兵衛の姿はありませんでした。半兵衛はその数ヶ月前、三木城攻めの陣中で持病の肺疾患が悪化し、すでに36歳の若さでこの世を去っていたのです。黒田家はこの大恩を決して忘れず、黒田家の家紋に竹中家の「黒餅(こくもち)」を取り入れ、子々孫々に至るまで竹中家を手厚く遇し続けました。