清水次郎長は英雄か悪党か?英語塾や富士山開墾に迫る幕末の素顔

清水次郎長は英雄か悪党か?英語塾や富士山開墾に迫る幕末の素顔についての最新情報をお届けします。

清水次郎長と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、子分の大政・小政を引き連れ、街道で対立組織と血で血を洗う出入りを繰り返した任侠の姿でしょう。しかし、歴史記録を精査すると、私たちが知る「次郎長像」の大半は、講談師の三代目神田伯山が原型を作り、浪曲師の広沢虎造が昭和初期に決定づけた大衆演芸の産物であることが分かります。

清水次郎長の本名は山本長五郎(文政3年・1820年生まれ)。生家は現在の静岡市清水区美濃輪町にあり、廻船問屋や米穀商を営む裕福な商人・高木三九郎の次男として誕生しました。母方の叔父である山本次郎八の養子に入り、「次郎八のところの長五郎」と呼ばれたことから、縮めて「次郎長」の通称が定着したと伝えられています。

若き日の長五郎は喧嘩早く、賭場に出入りする典型的な無頼漢でした。駿州一円から三河、甲斐にまで勢力を伸ばす過程では、博徒同士の熾烈な抗争に明け暮れたことは事実です。特に名高い「森の石松」の金毘羅参りと、帰路での都鳥一家による騙し討ちの復讐劇は、村上元三の小説やマキノ雅弘監督の名作映画『次郎長三国志』によって国民的エンターテインメントへと昇華しました。

しかし、実際の警察記録や同時代の公文書を紐解くと、次郎長は血気配下の暴走を厳しく戒め、むしろ流血を避けて利害関係を調整する高度な政治力と交渉力を備えた調停者でした。賭場のテラ銭や用心棒代で私腹を肥やす旧来のヤクザ組織とは異なり、早くから東海道の物流網や港湾利権を合法的に押さえる経済感覚を持っていた点が、他の博徒集団と一線を画していた理由です。

橋本 菜々子

橋本 菜々子

トレンドリサーチャー

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。

Share this article
Twitter Facebook Pinterest