宇喜多秀家の八丈島50年|極貧の流刑地で五大老最期を生き抜いた真実
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当時の八丈島は、黒潮が激しく渦巻く絶海の孤島であり、一度流されれば生きて本土へ戻ることは不可能と恐れられた地でした。稲作に適さない火山性の地質と台風の猛威により、島民ですら常に飢餓と隣り合わせの生活を強いられていました。秀家一行に割り当てられた食糧配給はごく僅かで、元57万石の大名といえども自給自足を余儀なくされる極限状態からのスタートでした。
この困窮を劇的に救ったのが、金沢に残された正室・豪姫の存在です。秀家と離別を余儀なくされた豪姫は加賀藩前田家へ引き取られましたが、生涯再婚を拒み、秀家への支援に執念を燃やしました。豪姫の強い意向を受けた加賀藩は、幕府の許可を取り付けた上で、白米70石をはじめ、味噌、醤油、反物、医薬品、日用雑貨、金銀を数年ごとに八丈島へ送り届ける体制を確立しました。
当時の島民の主食は雑穀や芋類であり、白米や反物は島内において通貨以上の価値を持ちました。秀家はこの潤沢な物資を自らの生活のためだけに消費するのではなく、困窮する島民や代官へも分け与え、島社会の中で確固たる信頼関係を築き上げました。豪姫自身は寛永11年(1634年)に金沢で59歳で世を去りますが、彼女の遺志は加賀藩歴代藩主に受け継がれ、この「八丈島仕送り」は幕末の慶応3年(1867年)に至るまで、約260年間一度も途切れることなく継続されたという驚異的な歴史的事実が存在します。