石舞台古墳の謎に迫る!蘇我馬子の墓説と盛土喪失の真相【2026】
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露出した巨石の偉容とともに、最大の関心事であり続けるのが石舞台古墳の被葬者の特定です。結論から言えば、学術界では飛鳥時代に絶大な権力を誇った大豪族・蘇我馬子の墓であるという説が決定打とみなされています。
蘇我馬子説がここまで確固たる支持を集める最大の理由は、『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5月の条文にあります。そこには、馬子が亡くなった際に「桃原墓(もものふはらのはか)」に葬られたと明記されています。石舞台古墳が位置する明日香村島庄の周辺地域は、古くから桃原と呼ばれていた伝承地と完全に合致する上、すぐ北西の低地からは馬子の邸宅跡と目される「島庄遺跡(嶋宮)」が発掘されています。自らが暮らした豪壮な邸宅を見下ろす高台に、最高権力者にふさわしい巨大古墳を築くことは、当時の支配階級の埋葬観から見ても極めて自然な配置です。
一方で、過去には異説も存在しました。江戸時代の『大和名所記』が天武天皇陵と見なしていたように、あまりの規模の壮大さから皇族の墓ではないかという憶測が流れた時代もありました。しかし、考古学的な編年調査が進んだ結果、石舞台古墳の築造時期は6世紀末から7世紀初頭と特定され、天武天皇(7世紀後半崩御)の時代とは明確に齟齬が生じます。
当時の大和朝廷において、推古天皇を支えつつも天皇を凌駕するほどの政治的・軍事的権勢を誇った人物は蘇我馬子をおいて他には存在しません。巨石を積み上げた威圧的な空間は、豪族主導から中央集権へと移り変わる激動の飛鳥時代において、馬子が自らの絶対的権力を後世に見せつけるために遺した、政治的モニュメントそのものと言えます。