荒木村重はなぜ妻子を見捨てた?信長裏切りの理由と生き延びた衝撃の真相

荒木村重はなぜ妻子を見捨てた?信長裏切りの理由と生き延びた衝撃の真相の疑問点について、専門知識を詳しくお届けします。

信長が下した報復は、日本の戦国史上でも類を見ない苛烈を極めたものでした。有岡城が開城した後、信長は村重に対して「尼崎城と花隈城を明け渡すならば妻子や家臣の命を助ける」と条件を出します。有岡城の家臣たちは尼崎城の村重のもとへ出向き、涙ながらに開城を嘆願しましたが、村重は頑として信長を信用せず、要求を拒絶しました。

激怒した信長は、見せしめとしての皆殺しを命じます。天正7年12月13日、京都の六条河原にて、村重の妻・だしをはじめとする一族の女性や子ども36名が白装束で引き立てられました。だしは当時21歳前後、絶世の美女と謳われた女性です。彼女は取り乱すことなく、車から降りると静かに念仏を唱え、従容として首を差し伸べました。

だしの辞世の句が今に伝わっています。

「みがきつる 行末の空も くもらじな 雨降る原の 露の玉の緒」

惨劇はこれにとどまりませんでした。その3日後、尼崎近郊の七松(兵庫県尼崎市)において、人質として残されていた下級武士の妻子や侍女など634名(諸説あり)が集められました。信長は長さ四間(約7メートル)の小屋を4棟建て、そこに女性や子どもをすし詰めに押し込めて周囲から火を放ち、生きたまま焼き殺しました。逃げ出そうとする者は鉄砲や槍で容赦なく仕留められ、その阿鼻叫喚の地獄絵図は、当代の一級史料である『信長公記』にも「見る人、聞く人、みな涙を流さぬ者はなかった」と生々しく記録されています。

井上 凛

井上 凛

シニアコンテンツプロデューサー

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。

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