本多忠勝はなぜ生涯無傷だったのか?蜻蛉切の秘密と驚愕の死因に迫る

本多忠勝はなぜ生涯無傷だったのか?蜻蛉切の秘密と驚愕の死因に迫るについて徹底解説いたします。専門家の見解をご覧ください。

忠勝の功績は戦場だけに留まりません。天正18年(1590年)の家康の関東移封に伴い、忠勝は上総国大多喜城(千葉県大多喜町)に10万石を与えられました。里見氏をはじめとする外様勢力への抑えとして城郭を改修し、城下町の整備に手腕を発揮します。

関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)には、東海道の要衝である伊勢国桑名藩(三重県桑名市)10万石へ転封となります。忠勝はここでも「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な都市計画を断行し、桑名城の拡張と城下町の近代化を成し遂げました。

しかし、戦国の世が終わり江戸幕府の基礎が固まると、忠勝ら「武断派」と、本多正信ら「文治派(官僚派)」との間で主導権争いが激化します。武勇一筋で生きてきた忠勝は次第に幕府の中枢政治から距離を置くようになり、家康との関係性にも微妙な距離感が生まれていきました。

そして慶長15年(1610年)、忠勝は63歳でこの世を去ります。その死因には有名な逸話が残されています。

晩年、忠勝が自分の小刀で木彫りの細工(仏像あるいは薬箱とされる)をしていた際、手元を狂わせて指に小さなかすり傷を負ってしまいました。生涯57回の合戦で傷を負わなかった忠勝は、流れる血を見て静かに悟ったといいます。

「本多忠勝も傷を負ったらおしまいだな」

現代の医学的観点から見れば、この小さな傷口から破傷風などの感染症を引き起こし、高齢による免疫力低下も相まって急速に病状が悪化したと考えられています。戦場では無敵を誇った男が、平時の小さな刃物の傷によって命を落としたという皮肉は、戦国時代の終わりを象徴する出来事として語り継がれています。

山本 拓海

山本 拓海

ヘルス&ウェルネスアドバイザー

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

Share this article
Twitter Facebook Pinterest