五七五を捨てた言葉の叫び:自由律俳句が今若者を惹きつける理由
今注目を集めている 五七五を捨てた言葉の叫び:自由律俳句が今若者を惹きつける理由について、多角的な視点をご紹介しています。
自由律俳句の歴史において、ひときわ異彩を放つ二人の巨人がいる。種田山頭火と尾崎放哉だ。彼らは井泉水の門下に集いながらも、まったく異なる形で自らの魂を削り取った。
山頭火は、全財産を失い、出家得度した後に果てしない行乞の旅へ出た。風雨に晒され、酒を煽り、大地を歩き続ける中で紡ぎ出された句群は、名句集『草木塔』に結実している。「分け入つても分け入つても青い山」「うしろすがたのしぐれてゆくか」――自らの宿業と自然が渾然一体となったその言葉には、歩行のリズムそのものが刻まれている。
対照的に、放哉は定住と孤絶の果てに言葉を研ぎ澄ました。東京帝国大学を卒業しながらもエリート街道から脱落し、小豆島の西光寺奥の院南郷庵で極貧のうちに生涯を閉じた。「咳をしても一人」「墓のうらに回る」といった句は、現代人の胸にも鋭く突き刺さる。他者との断絶、逃れられない自意識の疼き。放哉の句は、人間存在の究極の孤独をわずか数文字で照射している。