中村翫右衛門の家系図徹底解剖|梅之助・梅雀へと続く名優血脈と前進座秘話
中村翫右衛門の家系図徹底解剖|梅之助・梅雀へと続く名優血脈と前進座秘話の全貌を分かりやすくまとめてご紹介します。
三代目中村翫右衛門の経歴を語る上で避けて通れないのが、1931年5月22日の劇団前進座の創立です。当時、二代目市川左團次に師事していた翫右衛門は、五代目河原崎長十郎ら青年歌舞伎俳優とともに松竹を脱退。門閥や血筋によって役柄が固定される旧態依然とした歌舞伎界のヒエラルキーに公然と叛旗を翻しました。
「観客のための演劇、大衆に開かれた舞台」を旗印に掲げた前進座は、東京・吉祥寺に拠点を構え、劇団員が私財を共有して共同生活を送るという、日本演劇界初のコンミューン型組織を形成しました。翫右衛門はそこで俳優・演出・経営の中核を担い、古典歌舞伎の再解釈から現代劇まで幅広いレパートリーを築き上げます。
映画界においても、山中貞雄監督による不朽の名作『人情紙風船』(1937年)での髪結新三役をはじめ、今井正監督の『米』、小林正樹監督の『怪談』など、日本映画史を代表する傑作に出演。リアリズムに裏打ちされた渋みのある演技で日本中を唸らせました。舞台における中村翫右衛門の代表作としては、『俊寛』の俊寛僧都役、『勧進帳』の武蔵坊弁慶役、『元禄忠臣蔵』の大石内蔵助役などが挙げられ、豪放さと繊細な人間味を兼ね備えた芸風は「前進座の至宝」と称賛されました。
しかし、その人生は順風満帆ではありませんでした。1949年の劇団員一斉日本共産党入党、そして1952年の講和条約発効直前に起きた中国への無断出国(北京アジア太平洋地域平和連絡会議への参加と亡命生活)など、政治と冷戦の波に深く翻弄されます。1955年に帰国を果たすまで約3年半に及ぶ海外滞在は、劇団の存続を揺るがす深刻な危機をもたらしましたが、翫右衛門の揺るぎない演劇的実力は、舞台復帰とともに再び大衆を圧倒することとなりました。