沖田畷の戦いとは?圧倒的兵力差の龍造寺軍が壊滅した勝敗の理由
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沖田畷の戦いを理解するうえで欠かせないのが、当時の九州を二分・三分していた政治情勢です。1578年の「耳川の戦い」で豊後の大友宗麟が薩摩の島津氏に大敗すると、九州北西部の覇権を握ったのが佐賀を本拠とする龍造寺隆信でした。隆信は肥前・肥後・筑前・筑後・豊前・対馬・壱岐など「五州二島」を平定し、急速に大勢力を築き上げます。
しかし、隆信の苛烈な恐怖政治と強引な領土拡大は、傘下の国人領主たちに強い不満と警戒心を抱かせました。その代表格が、肥前・島原半島の日野江城を拠点としていたキリシタン大名・有馬晴信です。隆信の過度な要求に耐えかねた晴信は、龍造寺氏からの離反を決意。自領を守るため、南九州から勢力を伸ばす島津氏に救援を要請したことが、全面衝突の引き金となりました。