チャイナの語源はなぜ秦?陶磁器や支那との知られざる歴史と真相
チャイナの語源はなぜ秦?陶磁器や支那との知られざる歴史と真相について重要なポイントを解説いたします。詳細な分析をお届けします。
日本語の「支那(シナ)」と英語の「チャイナ(China)」は、一見すると響きが似ているものの、異なる単語のように受け止められがちです。しかし、言語学的には完全に同一のルーツ(サンスクリット語のCīna)を持つ兄弟語に他なりません。
7世紀、インドへ仏教の原典を求めて旅立った唐の僧侶・玄奘三蔵(三蔵法師)は、その旅行記『大唐西域記』の中で、インドの人々が唐や中原の地を「支那(チーナ)」や「摩訶至那(マハーチーナ=大いなる秦)」と呼んでいる事実を記しています。仏教経典の漢訳事業において、「Cīna」という音に対して「至那」「脂那」「支那」といった漢字が当てられたのが、漢字文化圏における「シナ」の始まりです。
日本において「支那」という呼称が広まったのは江戸時代中期のことでした。儒学者・新井白石がイタリア人宣教師シドッティの尋問記録をもとに著した『西洋紀聞』や、蘭学者・杉田玄白らが西洋の地理書を翻訳する際、「China」の訳語として仏典由来の中立的な地理用語であった「支那」を採用したのです。当時、日本にとっての相手国は「清国」であり、王朝名に左右されない不変の地域呼称として「支那」が重宝されました。
しかし、明治維新から日清戦争・日中戦争を経ていく中で、「支那」という呼称は日本の優越意識や植民地主義的なニュアンスと不可分に結びついていきました。終戦後の1946年、中華民国側からの要請を受けた日本外務省は「支那の呼称を避けることに関する通達」を各報道機関や出版界に発出します。これ以降、公的な場やメディアにおいて「支那」は姿を消し、「中国」への統一、あるいはカタカナの「チャイナ」への置き換えが進むこととなりました。