徳川光圀の真実|諸国漫遊の嘘とラーメン伝説、波乱の生涯を解剖
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光圀は御三家の重鎮として、江戸幕府の中央政治に対しても歯に衣着せぬ直言を行いました。特に有名なのが、第5代将軍・徳川綱吉との関係です。
綱吉が発令した極端な「生類憐みの令」に対し、光圀は庶民の生活を脅かす悪法であるとして公然と批判的な立場を取りました。「光圀が綱吉に犬の皮を20頭分送って抗議した」という逸話は後世の創作とされていますが、幕府の行き過ぎた専制政治に対して、徳川一族の長老として筋を通し、堂々と苦言を呈することができる唯一無二の存在でした。
63歳で藩主の座を甥の綱條に譲った光圀は、水戸の「西山荘(せいざんそう)」(現在の茨城県常陸太田市)に隠居します。大名屋敷とは程遠い、茅葺き屋根の質素な住まいで暮らしながら、『大日本史』の校閲に没頭しました。畑仕事を手伝い、身分を隠して農民と酒を酌み交わすなど、地域の人々と温かく触れ合ったこの西山荘での日々こそが、のちの「親しみやすい名君・水戸黄門」の原風景となりました。
光圀が残した「苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし」という名言は、順境のときこそ驕らず、逆境のときこそ腐らず前を向くという彼の激動の生涯そのものを象徴しています。