台湾の歴史と親日の真相|激動の歩みを年表で読み解く【2026最新】
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戦後の台湾社会を決定的に引き裂き、現在に至る政治的対立の根源となったのが、1947年に発生した未曾有の流血劇である二・二八事件の経緯です。この事件の爪痕を理解せずして、台湾の現代史を語ることは不可能です。
発端は1947年2月27日夕刻、台北市の路上で専売局の取締官が闇タバコを売っていた未亡人に対し、暴行を加えて商品を没収したことでした。これに抗議した群衆に対して取締官が発砲し、無関係の市民が死亡。翌2月28日、積もり積もった怒りを爆発させた市民が専売局を取り囲み、抗議デモは瞬く間に台湾全島へと拡大しました。
当時の行政長官・陳儀は、表向きは住民代表組織「二・二八事件処理委員会」と対話を行い、改革を約束する姿勢を見せました。しかし裏では中国大陸の蒋介石に電報を送り、精鋭部隊の増援を要請していたのです。3月8日、基隆港に上陸した国民党軍第21師団は、無差別掃射を行いながら街へ突入。本省人の医師、弁護士、大学教授、新聞記者、学生といったエリート層や知識人を組織的に連行・虐殺しました。
犠牲者数は推計で1万人から3万人近くに達すると報告されており、日本統治下で高度な近代教育を受けた世代のリーダー層が一夜にして根こそぎ奪われたのです。公の場で見せた遺族の手記には、「父親がある朝突然連れ去られ、数日後に海岸で銃殺死体で見つかったが、泣くことすら反逆とみなされて許されなかった」という凄惨な証言が数多く残されています。
その後、蒋介石と国民党政権は国共内戦に敗れて台湾へ逃亡。1949年に全土へ布告された戒厳令は、1987年に解除されるまで実に38年間にわたって継続しました。これは当時の世界最長記録です。この期間は「白色テロ(白色恐怖)」と呼ばれ、密告が奨励され、反体制的とみなされた14万人以上が投獄され、数千人が処刑されました。
学校教育現場では台湾語や客家語、原住民諸語の使用が一切禁止され、「反共復国」「中国人としての自覚」を叩き込む強烈な皇民化ならぬ“中華化”教育が強制されました。二・二八事件について口にすることは絶対のタブーとされ、家庭内ですら親が子に事件を語ることは固く禁じられていたのです。