徳冨蘆花の真相|名作『不如帰』と兄弟絶縁の衝撃的な生涯を徹底解説
今注目を集めている 徳冨蘆花の真相|名作『不如帰』と兄弟絶縁の衝撃的な生涯を徹底解説について、多角的な視点を整理して公開しています。
作家・徳冨蘆花の読み方は「とくとみ ろか」です。本名は徳富健次郎(けんじろう)。筆名「蘆花」は、中国の詩人・白居易(白楽天)の詩句「蘆花浅水三更月」に由来し、水辺に咲く白く慎ましい葦の花を意味しています。苗字の漢字について、兄の蘇峰が「徳富」を用いたのに対し、蘆花は点のない異体字「徳冨」を好んで使用した点も特徴的です。
1868年(明治元年)、肥後国水俣(現在の熊本県水俣市)の郷士・儒学者の家に生まれた蘆花は、熊本洋学校や同志社英学校で学びました。同志社時代にはキリスト教の洗礼を受け、新島襄の強い薫陶を受けます。その後、兄・蘇峰が主宰する民友社に入社して記者・翻訳者として活動を開始し、1898年に発表した小説『不如帰』で一躍、国民的人気作家の地位を確立しました。
私生活では、1894年に妻・愛子(旧姓・原田)と結婚。愛子夫人は蘆花の精神的苦悩や破天荒ともいえる生活様式の転換を常に支え続け、後年には夫婦でロシアやエルサレムへの巡礼の旅に出るなど、生涯の伴侶として苦楽を共にしました。波乱に富んだ徳冨蘆花の生涯年表は以下の通りです。
【徳冨蘆花の主な略年表】
・1868年(明治元年):熊本県水俣に生まれる
・1885年(明治18年):同志社英学校に入学、キリスト教に入信
・1894年(明治27年):原田愛子と結婚
・1898年(明治31年):『國民新聞』に『不如帰』を連載開始(翌年単行本化され大ベストセラーに)
・1900年(明治33年):散文詩集『自然と人生』を刊行
・1903年(明治36年):兄・蘇峰へ「告別の辞」を送り絶縁
・1906年(明治39年):ロシアへ渡航しヤースナヤ・ポリャーナでトルストイと対面
・1907年(明治40年):東京府千歳村粕谷(現・世田谷区)に移住し「恒春園」と命名
・1911年(明治44年):第一高等学校で伝説的講演「謀叛論」を行う
・1927年(昭和2年):群馬県伊香保温泉にて58歳で逝去。臨終直前に兄・蘇峰と和解