五榜の掲示とは?五箇条の御誓文との違いと撤廃の真相を徹底解剖

五榜の掲示とは?五箇条の御誓文との違いと撤廃の真相を徹底解剖とはどのようなものなのか? 背景や要点を整理してお届けします。

五榜の掲示の中で、もっとも国際的な摩擦を引き起こしたのが第三札「邪宗門の禁止」でした。江戸幕府が250年以上にわたり続けてきた禁教政策を、近代化を標榜する新政府がそのまま引き継いだ理由は、単なる前例踏襲にとどまりません。

明治新政府の中核には、天皇を中心とする神道国家を築こうとする「祭政一致」の思想が存在していました。キリスト教の教義は天皇の絶対的権威と相容れない異端とみなされ、保守派の尊皇攘夷論者たちはキリスト教の復活を極度に恐れていたのです。

この方針が牙を剥いた事件が、長崎で起きた「浦上四番崩れ」でした。1865年に長崎の大浦天主堂で潜伏キリシタンが信仰を告白して以降、浦上の信徒たちは公然と仏教寺院との関係を断ち始めました。幕府に代わって長崎を接収した新政府は、五榜の掲示の第三札を根拠に、3,000人を超える浦上のキリシタン農民を一斉に捕縛。指導者層を拷問にかけ、名古屋、金沢、津、萩など全国の各藩へ強制配流(流罪)に処しました。

当時の政府中枢の生々しい対立は、大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』にも克明に記録されています。駐日英国公使ハリー・パークスは激高し、新政府に対して即時釈放を強く要求しました。これに対し、交渉役を務めた大隈は「キリスト教は国家の秩序を破壊する危険思想であり、信仰を解禁すれば日本国内で大反乱が起きる」と強硬に反論。深夜に及ぶ激論の末、パークスが怒りのあまり机を叩いて立ち去った様子が手記に記されています。新政府は自らの正当性を守るため、国際世論に背を向けてでも弾圧を貫こうとしたのです。

清水 千尋

清水 千尋

フード&トラベルライター

マーケティングと消費者心理のトレンドを分析し、現代のヒット商品の背景を読み解きます。

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