りえママの若い頃は絶世の美女?写真と波乱の生涯・母娘の真実

りえママの若い頃は絶世の美女?写真と波乱の生涯・母娘の真実について見逃せない ポイントを厳選して解説いたします。

光子さんのプロデューサーとしての剛腕と特異性が最も世に知らしめられたのが、1990年代初頭に起きた2つの巨大なスキャンダルでした。

150万部超の伝説『Santa Fe』出版に隠された母の計算

1991年、当時18歳でトップアイドル・清純派女優の頂点にいたりえさんが、篠山紀信氏撮影のヌード写真集『Santa Fe』を発売し、累計発行部数150万部超という写真集史上の歴代最高記録を樹立しました。この前代未聞のプロジェクトを主導したのは、他ならぬりえママでした。

篠山氏の回想によると、光子さんは撮影現場でりえさんに対し「脱ぎなさい」と直接指示を出したとされています。躊躇する娘を前に、光子さんは次のように言い放ちました。
「若いときの美しさは特別なもの。20歳を過ぎれば、りえも太るかもしれない。私のように」
かつて自らも絶世の美貌を誇りながら、年齢とともに容姿が変化していく無常さを知っていた光子さんだからこそ、「今この瞬間の奇跡的な美しさを永遠に記録に残す」という冷徹なまでの美学を貫いたのです。世間からは激しいバッシングを浴びましたが、結果としてりえさんは単なるアイドルから時代を象徴するアイコンへと脱皮を遂げました。

世紀の婚約会見から一転、貴乃花との破談劇の真相

さらに世間を震撼させたのが、1992年11月に発表された若花田(当時)の弟・貴花田(のちの横綱・貴乃花)との婚約と、わずか2か月後の電撃破談です。「世紀のカップル誕生」と日本中が祝福ムードに包まれたのも束の間、1993年1月に事態は急転直下、白紙撤回へと向かいました。

破談の決定打となったのは、光子さんの激しい介入でした。伝統と格式に縛られる角界に娘が嫁ぎ、若くして部屋のおかみさんとして芸能界を完全に引退することを、光子さんはどうしても容認できませんでした。報道各社の取材や関係者の告白によると、光子さんは親交の深かった美川憲一さんに「りえを説得してほしい」と懇願。美川さんが電話口で「あなたには背負っている看板があるのよ」とりえさんを説得したエピソードはあまりに有名です。娘のキャリアと自己のアイデンティティが完全に同一化していた光子さんにとって、娘を相撲界に奪われることは耐え難い喪失だったのです。

石川 優花

石川 優花

インテリア&ライフスタイルコーディネーター

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。

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